Thursday, 28 February 2013

New Yoga Territory

先週末は久しぶりにアシュタンガ以外のヨガのレッスン。


私はにとっては初めて聞く名前だったけど、ロンドンのヨガ界では有名らしいリズ・ラーク先生。



リズ先生はその昔、ジョンと同じ時期にデレック・アイランド先生からアシュタンガを学んだそう。

その後ジョンはパタビジョイス氏(グルジ)の元へ行ったけど、リズはアシュタンガを離れ別のスタイルのヨガを勉強して、今では独自のヴィンヤサ・フローを教えている先生。


アシュタンガの流れを感じるクラス構成は、ダイナミックながらもハード過ぎる事がなくとても良かった。



それからもう一つずっと心待ちにしていたギータのクラスも受講。

先生はロンドンのハレ・クリシュナ寺院のデザインを手掛けた、ランチョウ・プライム氏。

ギータはずっと勉強したいと思いながらも、どの訳本がいいのかとか、どこから取り掛かれば良いのかとか分からないままだったので、このワークショップは渡りに船といった感じ。

プライム氏の訳本、"Bhagavad Gita Talks Between The Soul and God"は、とても読みやすく気負う事なく読めるのでとてもお勧め。

彼のキルタンも素晴らしかった。


やっぱりギータはいいなぁ。



Thursday, 14 February 2013

The Alchemist & Sankalpa


昔どこかで著者の名前を聞いて、「いつか機会があったら読んでみよう」と思ったまま忘れていたのだけど、いつもチェックする激安の本屋さんで破格の値段で売られていたのを見て思い出した。




クリントン元米大統領や女優ジュリア・ロバーツが読んだ事で有名になった作品。



夢を諦めないことの大切さを、淡々と綴る物語。


もしも話がそれだけなら、私としては子供たちに読ませてあげたい本として覚えてはおいても、敢えて大人に勧める程の本だとは思わないのだけど、私が「この本、いいな」と思った箇所があって、

それは共に旅をする錬金術師が少年に、

「心の声をいつも聞きなさい。でも心は嘘をつくし、煩わしいほど君に喋りかけてくる。それでもその声をじっと聞きなさい。じっと聞き続けていれば、いつか心の本当の声が聞こえてくる」

伝えるシーン。


これってヨガでいう、Chitta Vritti(チッタ・ヴリッティ)とSankalpa(サンカルパ)の事だ、と思った。


Chitta Vrittiとは「心のさざ波」の事で、次から次へと私たちのマインドに浮かんでくる、ありとあらゆる事。


最近読んだ本によると、左脳には言語機能(language centre)を司る部分があって、殆どの人の場合そこが絶えずおしゃべりをしている状態。著者であるジルさんはそれをBrain Chat(脳のおしゃべり)と名付けていたけど、ヨガ的に言ったらそれはChitta Vritti。

パタンジャリのヨガ・スートラでは、"yoga chitta vritti nirodha."という文章があって、「ヨガは絶えず移り変わる心を鎮める事である」とヨガを定義している。

Chitta Vrittiは左脳の思考なのでエゴの声。「私」と「他」を隔てる声で、この声が大きい限り調和はありえない。だからヨガはその声を沈めて、自分の内なる存在の声を聞く事を目的とする。


そしてその過程で生まれてくるのがSankalpa。私たちはみんなSankalpaを持っていて、それは私たちが心から求めるもの。日本語で言うと、「大義」という訳がしっくりくるかも。

エゴの自分(小我)がどうこうではなくて、真の心が求めるもの。それは個人によって違うものだけど、でもSankalpaを見つけて自分が切磋琢磨する事によって、自分の取り巻く環境もそれに呼応するかのように動き始める。Sankalpaを見つけてそれに歩き出したとき、その人は多分人生で一番輝いていると思う。


Sankalpaはエゴの声を押さえないと見えてこないものなので、見つけるにはじっと瞑想するだけ。でも瞑想の過程では沢山のChitta Vrittiが聞こえてくるから、それでも諦めないでじっと待っていれば、自分の本当の聞こえてくる。


銅を金に変えるのが本当の錬金術ではない、魂の声を聞くことができるのが錬金術師なんだ、

と言っていた錬金術師。



彼は錬金術師であり、とてもヨギ。

かっこいい。

Wednesday, 13 February 2013

Lent


今日からレント。

昨日の火曜日に練習が終わってお友達と更衣室でおしゃべりしている時「今日はパンケーキの日だね」と言われて、「じゃあ明日からレントだ!」と気がついた。

なので昨日のランチはパンケーキ。


私は特定の宗教には属していないけど、うちは母がクリスチャンで父は趣味で聖書を読むような人。だから子供の頃は日曜学校に通ったりしてたことも。

でも私は自分自身をクリスチャンと思った事は一度もなく、英国国教会の総本山カンタベリーに実家を持ちながらもクリスマスが嫌い。クリスマスのあの商業的匂いがどうしてもダメ。


でもレントは毎年気になる行事。





なぜなら、レントは「好きなもの断ち」の期間だから。

昔は乳製品や肉類を断ち質素な生活をイースターまで続けたようだけど、今では単純に自分の好きなものを断つ、と言うのが主流。


私、これってYama にあるAparigraha (detachment (執着しない))練習にピッタリだと思う。

ヨガは執着心を捨てていく大切さを説いているので、レントは何かをgive upするのにはちょうどいい期間になるのでは、と。



まだ今年のレントは何も考えていないけど、今回は物質的な事よりも精神的な物を手放す練習をしてみたいと思います。

例えば「怒り」の感情を手放してみたりとか。周りに対してはもちろんだし、自分に対しても怒らない。


かなり難しいと思うけど。

でもチャレンジする価値はあると思う。


Monday, 11 February 2013

♪Kirtan♪


今日は新月のためアサナの練習はお休み。
そのかわりうちのシャラでは、私の兄弟子先生による座学のレッスン。

私も参加したかったのだけど、今日から始まる初心者コースを担当しているため(*)最後のチャンティングの所だけ覗く事ができました。

(*本当はムーンデイ(新月と満月の日)にはアサナはとらないのが伝統なのだけど、初心者の方々はアシュタンガを継続的に練習している訳でもなく、また他のヨガも日々練習している人たちを対象とはしていないので、ムーンデイでも軽くアサナの練習をシャラでは指導。)


ヨガのチャンティングってなんだか怪しげに聞こえるかもしれないけど、実はチャンティングはれっきとしたプラナヤマの練習であり、なので真面目にやろうと思えばバンダも使う。


今朝は(多分)我がシャラでは初となるキルタンのレッスン。

キルタンはシュルティと呼ばれるインドの伝統的なアコーディオンのような楽器を用いて行われ、演奏者がシュルティに合わせてマントラを唱え、そしてそれを参加者が復唱するといったもの。


イギリスではNikki Sladeさんがキルタンの第一人者として有名で、私も彼女のクラスに何度か参加した事があるけど、彼女の歌声は本当にパワフルで凄まじい。

彼女の歌声はこちら。


よく聞くと、彼女息継ぎしていない。

これが正しいマントラの唱え方であり、プラナヤマと言われる所以。


座って皆で歌うだけなので、傍から見たら多分怪しい集団と思われるかもしれないけど、彼女のクラスは不思議な空間で終わった後は心がとってもスッキリするんです。



今日参加した生徒さんたちには、余りなじみの無い歌ヨガだった為かその声も控えめだったけど、声を出して唱えるマントラはまた格別な浄化作用があるから、恥ずかしがらずにバーッとバンダを聞かせて歌った方がもっと楽しいと思う。




Friday, 1 February 2013

Our Plastic Brain


そもそも私に「人間の脳ってすごい!」と思わせてくれたのがこの本。




フィクション以上に驚くノンフィクション。



マイク・メイ氏は幼い頃に事故によって視力を失ってしまうのだけど、そんな事をものともせずウィンドサーフィンをしたり、塔のてっぺんまで登ったり、ダウンヒル・スピードスキーで優勝したり、事業で成功したり、とにかく色々な事にチャレンジをしてきた人。

そんな彼が、当時のまだ症例の少ない医療を使って46年目にして視力を取り戻すのだけど、そこには大きな関門が待ち構えていた、というのが物語の大筋。



この本の中では「見る」事と「脳」の働きについて分かりやすく解説されているのだけど、それが面白くて読者はぐんぐんと脳の世界に引込まれていくと思う。

今では生まれ変わったら脳科学者になりたいくらい興味が湧いた(それか宇宙物理学者。どちらも今世でやるには能力が足りないけど。。。)


私たちはついつい目で見てると思いがちだけど、実は脳で見ている生き物。
つまり脳が私たちにこの世界を見せていて、脳が処理しきれない情報は見れていない。

以前テレビで、その辺を歩いている町の人に「あなたの腕時計の文字盤は数字ですか、ローマ数字ですか、それとも別のものですか?」と質問をする実験があった。ところが回答者は自分の時計なのにも関わらず「あれ、どっちだっけ?」と返答に詰まってしまい、パッと自分の時計を見て「あぁ、数字でした」と答えたりするの。そして更にたたみ掛けるように、「では、今何時でしたか?」と聞くと、腕時計の主は「えーと、、、分かりません」と答える。みんなたった今自分の時計を見たばかりなのにね。


以下、本からの抜粋。


"Before the middle of the nineteenth century, vision was widely thought to be a passive experience, one in which objects were simply 'out there' to be seen. <i>-snip-</i> But then, starting in 1850 with the renowned German scientist Hermann von Helmholtz, and continuing in the middle of the twentieth century with psychologist Richard Gregory and others, scientists offered a startlingly different explanation for the brain's role in vision. Human beings, they argued, depended to a great extent on knowledge in order to see, to make sense of what Gregory called the 'shadowy ghosts' that were the retinal images in our eyes.<i> -snip-</i> By knowledge, they meant a set of assumptions about the world and the objects that exist in it. This set of assumptions, they argued, was so deeply ingrained in the human brain that people imposed them instantaneously, automatically, and unconsciously on the visual data streaming in from the eyes. No one realised they were using knowledge to interpret the visual scene, but everyone did it all the time. <i>-snip-</i> Today, it is virtually impossible to find a vision scientist, researcher, or psychologist who does not agree that knowledge and vision are highly related, and that without our knowledge about the visual world our ability to undertand visual scenes would fall apart."


例えば一つの事に関して、「あれってこうだったっけ?」と考えていたりすると、なんだかその考えている事をサポートするような情報がやたらと目についたりする事がある。変な例えだけど、以前「ロンドンロードって名前の道多いな」と思っていたら、行く先々でやたらと目についたという経験がある。「ロンドンは首都なんだから、そこに通じる昔の道路がそう名付けられても不思議じゃないでしょう」と片付けることも出来るけど、同じようにその場にいた旦那君は「あ、そんな道あったの?」と見えていない。だからやっぱり、考えている/いないで見えてくるものが違ったりするのだと思う。


この本の中に、こんな素敵な台詞が。

"Yes, in being open to everything, in being open to every possible interpretation. In ways, there is something liberating about my vision, in the sense that so much of what I see can be anything. It's fascinating to think that an object, or even a person, can be anything. It means that almost everything can be beautiful."


私たちは、私たちがそれぞれ思い描いた世界を見る。

見方を変えれば世界が変わる、というのは脳の観点から言えば何ら矛盾していない事実なのね。